戊辰戦争を巡る先学の発言を更に。
「幕末において尊皇派と佐幕派がはげしく対立した。しかし、その実態
は決していはゆる体制理念の対立ではなかつた。幕府要路はもちろん
佐幕派の人々も公武合体の立場で内外の問題を処理しようと努力したの
であつて、今日の一部政党・知識人のやうに『天皇制打倒』を企図した
のではなかつた。
…戊辰役において会津藩士等が『禁廷(朝廷)に対し奉りて弓を引く
にあらず、綸旨(りんじ、天皇のお言葉)を矯(た)めた(曲げた)
…薩長を打倒せん』として結束したことは、今日多くの史料の語る
ところである。
…われわれは、王政復古を推進し祖国の独立を守つた西南雄藩の活躍を
高く評価するとともに、東北諸藩の沈痛な尊皇心を見落としてはなら
ないであらう」
(鳥巣通明「靖国神社の創建と志士の合祀」、神道学会編
『出雲神道の研究』昭和43年刊)
「〈官軍〉〈賊軍〉という言い方がありますが、〈賊軍〉になって
敗北し、降伏しても、維新後は恭順の意を表し、天皇を中心にして
新しい国家のために力を尽くしました。新しい国づくりのために恩讐を
越えて協力したのです。
…〈賊軍〉とされた会津にしても、会津の松平容保(かたもり)は、
もともと孝明天皇からは一番の信頼を得ていたのです。
徳川幕府にしても、本来ならお取り潰しになっているはずが、
徳川家の家名を存続させて…慶喜に公爵まで与え、70万石が
与えられました。
このような国は恐らく他にないと思います。
…戊辰戦争で旧幕府軍は官軍に降伏しました。
約3500の官軍側の戦死者のみが靖国神社の前身、東京招魂社に
お祀りされたことは、事実です。
〈賊〉と言われたいわゆる旧幕府軍は祀られていません。
負けた方だから、公(おおやけ)に弔うのを憚られたわけです。
というのも、当時の慣習から考えると、祭祀はできないと思い込んで
いたわけです。
ところが政府は、戊辰の戦役で亡くなった〈賊軍〉を遺族がお祀りして
も一向に構わないというお達しを府県に出しています。
どれだけ当時の政府が、〈賊軍〉に対しても、気を遣っていたか。
実際にこのような達(たっし)を出していた事実があるのです」
(阪本是丸「靖国神社史1」、神社本庁編『靖国神社』平成24年刊)
次で一区切りとしたい。
(続く)